部屋がきれい

ここはわたしのシェルター。萌えを探求するブログです。日々について。部屋はきれいじゃないです。

5時間日記

急にきたこの寒波にみんなまいってる。きづいたのだが、先人は、冬鬱を新春のめでたさでごまかしたんじゃないか。ちぐはぐとしている。

 

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現実的なことばかりを考えられない。

 

最近のブログは、あのことがあってより考えるようになったから観念的なものではなく「気づきまとめ」になってきている。分かりやすさとか整合性とか、できるだけ傷つけないようにと、もろもろ考えて幾度も書き直している。けどきょうはそれをしないでみる。

 

これまでいくつもの悩みが浮上しては、解決したり断ち切ったりしてきた。こんどのこれもきっとおわる。でも何度目かの同じようなことで悩んでいる気がする。大切な人だけ大切にすればいいものを。

病気があろうがなかろうが、障害があろうがなかろうが、人間であるということはひとつだけおなじ。

「こうだからこの知識に明るいはず→だからこういうことをできるはず」みたいな思い込みがあると、苦しくて仕方なし。やさしくして"あげよう"だなんて傲慢だしそれこそ偽善だ

私はほんとうにほんとうの偽善者だったのか〜ということに落ち込んでいる。誰に対してもやさしくしたくて・できていると思っていた点が、偽善。誰に対しても、なんてさっぱりできていなかった。合わない人は国交断絶するし、やさしさというよか甘えてるし頼ってるから。誰に対してもやさしくみえるひとに見出してもらって、引っ張り上げてもらっていただけ。優しい人と一緒にいて錯覚しただけ。

これがアイデンティティの崩壊がまずいと言われる所以なのかとおもう。自分が思う通りの自分ではないと、驚きを通り越してがっかりだ。しょんぼり。

恨まれるのが怖い(すでにかなり恨まれていると思うけど?)憎まれるのも怖い、憎まれている、嫌われていると思うと生きてゆけない。怖くてしんどい。疎まれるのもいやだ。他人がそんなに私のことを気にしてなどいないはずなのに、そう思ってしまう。

神仏でさえ、無宗教論者からは信じてもらえていないのに、なぜわたしなんかが100%好意の上に乗っかることができると思っていたのか。

2020年の計を考えていたときにもこのことを考えていた。だから自分の人生に集中しろと、自分に言うことにしたのだ。人を気にしすぎで、怒られるのも嫌われるのも"人から何か思われる"ことが怖いの、一生会わないようなその辺の人に怒られたりするのすごく怖い、たとえば銭湯のタオル注意されるようなやつとか、謎に舌打ちされるのとか恐ろしい。

…ってのをやめたい!気にしたくない!自分のことをやさしいと思うのをまずやめた。自分に期待しすぎていたから、「怒られる=できてない=ショック」だったのかも。私はめちゃくちゃな自己中で気まぐれだ。小心者なところが短所。でも初対面の人にそんな自己紹介は出来ない。わたしはマイペースで、せっかちで、ゆったりたっぷりのんびりしています、(今アイデンティティを再構築しています…◎←読み込み中のまる)

 

 

1時間歩いた日。今日靴を下ろしたから靴ずれになった。足を引きずって歩いていると、一生懸命(馬鹿を)やってるなと実感してうれしい。痛みを伴うと嬉しいというのは、こういう感情なのか。すこしだけわかった。

あいみょんの◯◯ちゃんという歌の歌詞に「そろそろほんとうの愛を知りたいわ」とある。私はほんとうの愛を知っているのかな。研究しようとしたってダメなんだ

砂漠を彷徨い図書館にたどり着き、吉本ばななのうたかたを読んだ。人魚と嵐の関係、お母さんとお父さんの関係。一緒にいるとか、好きだとか憎いとかなんなんだって思う。でもその気持ち、知っているよ。

きのう🐘ちゃんと会ったときの風景を思い出した。何をするかじゃなくて、一緒にいる時間が大事なんだよなって感じた。話したいことが止まらないときもあるんだけど、昨日は別に、ただ一緒に居たかった。まだ(帰りたくない)って言ったら適当にその辺の居酒屋に付き合ってくれるし。顔を眺めて、手を掴まえていれば、それでよい。

毎日会えるようになったら一体どんな気分なんだろう。

🐘ちゃんという人と縁が生まれて本当に嬉しい。モノを大事にしすぎてお気に入りのものを使えないところとかほんとうにかわいい。コミュニケーションが心地良い。どうにかしてずっと一緒にいたい。病めるときも。それは私の希望だけではかなわない願いなんだよな 一緒に居たいと思ってもらいたい。

これが愛だといいなっておもう ほんとうの愛