いつまで自分探ししてるんだろ。一生かな。
何かを奪われたとしてもブログだけはやめられないと思う。最近ますますそう思う。文章で人を救うとか、意図してできるわけがない、医療行為じゃねんだから こういうと突き放しているような寂しさを感じるが、読み手が勝手に面白いと感じたり勇気づけられたりするものなんじゃないかなと考える。だからやろうとおもってかける人はすごい。
それに、自分が誰かのため100%で書いてるか、というとちがう。誰かに読まれることは想定してるけど、その読者には未来の自分のことも想定してる。
そうはいってもせっかく読んでもらうんだったら・読まれる場に文章を置いているのだったら、面白くありたい。じぶんが後で読むにしても「くそつまんな」て思いたくない。あとで読んでくそつまんなと思ったら直してる。
この会社に出勤するのもあと10日。4月からは別の会社の社員になる。
正直、計画立てたり目標立てたりしても、わからんもんはわからん。コロナ流行で経済がこうなることなど、予測してなかったし、去年の今頃は現職で出世することに必死になってたのにまさか転職するなんて、思いもよらなかった。
変わらないものはない、ずっと同じこともない。ただそれが一つの真実だと思う。ブッダが悟ったように。
2013年から趣味で、自分の髪型を記録するインスタをやっている。(鍵だけどね)飽き性だということがありありとわかる。内巻きボブ、おかっぱ、ベリーショート、マッシュ、肩ハネボブ、ウルフ、オン眉、ワンレン、パーマ、真っ黒、金髪、紫、栗色、インナーカラーもやった。ウィッグ使ってたこともある。それらは、反抗心だったり、気に入られたくてやったりしたものもある。でもほとんどの動機は「飽きたから変えよう」だった。いつも変化を求めている姿は、なんだか滑稽だなと思う。どうしてひとところに居られないのかしら。
それもやはり諸行無常を体現しているに他ならない。「わたしは転職せず定年まで勤めました」というひとだって、変わってないはずはない。老化、システムの刷新、お客様の変化、部署移動はもちろん、毎日違う天気や気圧、自分の体調、周りの人のご機嫌も違う中で毎日同じクオリティの仕事をするには、毎日それに合わせた違う頑張りで一定を保たなければならない。だから同じということはやっぱりあり得ない。
そういうことに想いを馳せると、「ガタガタでも飽き性でもそれがあるべき姿だよな」と勇気が出る。
30歳までの中期計画を立てようと筆をとったのに、こんなブログになってしまった。
計画なんて意味なし、と結びたいわけではない。
むしろ逆で、状況が変わるとしても、毎年目標を立てていることに意味はある。私は自分で立てた目標は達成しようと頑張れるみたいだ。達成率は高いと思う。現に2020年始まって3ヶ月も経ってないけど2つ達成したし。それに2019年、父も妹も入院するなんて、2019年のお正月に予想してなかったよ。それでも6割達成したんだからすごいと思う。
思い込みが強くてよかったなと思う。ひとつは「私はラッキーだ」とおもっていること、もうひとつは「それによって夢を叶えられてきた」という実績(それを実績というかはひとによるけれど)この二つの考えが、年を経るごとにパワーを増している。だからあまり悲観的にならず、目標に向かって邁進できていると思う 思いたい
今考えられる限界未来予想図
ギュイギュイと脳をしぼり、捻り出した「30歳までの計画」を書いておきます。ひとのみえるところに書くのがよいのだ
2020年
教わりながらIFAの基礎知識をつける 自分のお客様累計30人以上もつ
2021年
IFAとして自立してる お客様60人以上 CFP認定者になる 末妹🍅の前撮り費用を出してあげられるくらい稼ぐ(妹🍟の分出したから)
2022年
IFAとして一人前になる(ひとは3年で一人前という根拠のない法則による)お客様100人以上 投資金額を増やす
2023年
お客様120人以上もつ 並行してライターか何か書くことで収益を得始める
2024年
お客様150人以上もつ セミナーの講師とかやる 🐘ちゃんと結婚する 町ののエッセイか何かを出す
うおおおおお書いたらできそうな気がしてきた
希望的観測でもとりあえず可視化することに意味があるはず…脳が限界を迎えた…見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだら静寂を切り裂いていくつも声が生まれたので…今日はおしまいにします…
木蓮みてひとやすみ