部屋がきれい

ここはわたしのシェルター。萌えを探求するブログです。日々について。部屋はきれいじゃないです。

じんせいレベルあがってきた

・3年前のブログを読んでいた

2018年の春、私は多動していた。

今となっては笑い話だけど、「友達に恋する苦しみから解放されるために恋した別の人に振られ、その衝動で婚活をしようとするも資金難でクーリングオフ」したりとかしてた。(アドバイザーの方本当にごめんなさい😭)(この話今初めてした)(友達とはパオちゃんのこと)

 

それに当時は新卒で入った会社にずっとい続けると思っていた。私のためではなく「〇〇さんに〇〇と言われたからやめない」だった。結局どこか、他人に決断を委ねていた。

とにかく表層の上澄みで、芯に触れないように生きていた。

それでも十分やっていけた。触らなければあのまんま生きていけた。

 

そのあとまた動きたくなったばっかりに、ついに芯に触れてしまった。

痛くて仕方がなかったけど、膿が出た。あの頃は体感的にも痛く、辛かったし、辛いことを選んでしまって何もかもを恨んだ。今も完全にゆるせてはいない。

だけど、おかげで今いる場所では幸せに過ごしている。

いま皮膚でいえば再生のターンにいる。新しい環境づくりにつとめている。

 

・ゆるす

誰かの価値観じゃなく、私の人生のことは私の価値観で測ればいいと、辛い時期を乗り越えてようやく気がついた。

 

「〇〇でなきゃ幸せになれない」

「〇〇してたら不幸になる」

は、あくまでもマジョリティなだけでしょ?バーナム効果なだけかもしれないでしょ?

哲学や思想から、占いにいたるまで、答えのないものや形のないもの、とても好き。

けど、そのことわりを全て忠実に守らなくてもいいって、わかった。

 

 

「ゆるす」が一番近い。自分をゆるす。

完璧でないことを認め、それでもいいんだよとゆるす。

わたしはずっと自分をゆるせなかった。

「◯◯しないとバチが当たる」と考えていたのだ。他人に対して嫌な感情を抱くことが怖かった。人にそんな感情を抱くなんて、いつか自分に返ってくるんじゃないかと。

 

去年のこと。人に欠点を指摘され、こんな記事を書きました。↓

病気でした - 部屋がきれい

自分が見栄っ張りなことに気付かされてしまい、直そうと必死になった。こんな欠点のある自分じゃ全員に嫌われる、いつかバチが当たる。

でも天邪鬼なので「別になおさなくたっていいじゃん」っていう黒いシミも同時に心に広がっていた。

 

そんな混沌とした中で、ぼきぼき心が折れて、そりゃあ大変だったよね。「よくがんばったね、本当にお疲れ様」去年の私に言いたい。

 

 

"見栄っ張りを直そう"とする前に、まずはゆるすことができればよかった。

もっとヒヨコスタートでよかったのだ、許すことや認めることを「いいよ」と、思えたらそれで十分だった。

できなくてもいいよ。かんぺきじゃなくていいよ。やすみたいときやすんでいいよ。えらんでいいよ。

いまゆるしてあげる。

 

・許すことは思考の癖を変えること

 

自分を許す、受け入れるとは具体的にどうするか。結局変化ではあるんだけど、

 

「こんなところがある」

に気づいた時の一言目を、

 

⇨「いやだ、きらい、しんどい」

から

⇨「こんなところがあるんだね」

に変えてみたらずいぶんと思考の癖が変化してきた。否定せず落胆もせず、事実を認識する。かなり楽になった。

自分にちゃんと優しくできるようになった。漠然としたバチが当たることへの恐れは消え、ちゃんと論理的に考えられるようになった。「いま◯◯しないと、あとで⚫︎⚫︎するときに◎◎なので困る」って。

 

自分ができない状態は恥ずかしいけど…「焦るな〜」って言い聞かせるようになった。客観的に自分を見ることも、受け入れるコツだと思った。

 

 

毎日を過ごすなかで、確実にできることは増えている。

「許す」をちゃんとわかってれば、「自分なんてダメだ」とくさることもないし、繰り返しの生活を螺旋で生きていける。

 

今までだってちゃんと登ってきたけどさ いまはそれをまいにち感じながら生きてるなぁと思う。