中途半端な写真…
こないだ、ぱおちが誕生日だった。便乗して三連休をとった。
前泊したので、ほぼ4日一緒にいた。こんなに2人で居たのは初めてだ。
4日目の夜。駅まで送ってくれたあと、
「電車追いかけて道路渡ったら跳ねられました」っ
てラインがきて、「どゆこと?!」ってたくさんラインしても既読にならなくて、冗談と思えなくなってしまった。電話かけたのにでなくて、ますます現実味帯びてきて、もう現地に戻るしかない…と思ってたら「うそだよ!」って来て
モー!🐄
もーー。ホッとして、電車の中で涙がでた。
今日ちょうど、「俺が末期癌だって言ったらどうする?」ってたらればトークをしたばかりだった。
どうする?ってヨ…想像するだけで動悸がする。悲劇。立ち直れない。パオがこの世からいなくなる現実、起こらないでほしい。喋れなくても動けなくてもせめて生きていてほしい、ずっと。命あって、あたたかく呼吸をしていてほしい。
「生きている」ことを思うとき、妹のゴンザが浮かぶ。
オーバードーズして救急車で運ばれた。透析してる時、どこもかしこも管が繋がれていて、喋ることはおろか、ただ呼吸させられているだけの状態。目も開いたり開かなかったり、呼びかけにも応えない。手を握り返す力もない。
そんな時でも私は、絶望ではなく希望を感じていた。一生このままでも良いから、生きててほしいと思った。
いのちが有るか無いか、その一線はとても大きい。
「死んでも心の中で生きてる」なんて、そんなのきれいごと。息をしていて心臓が動いているなら、生きてる。そうじゃないなら、死んでる。生きてない。
大事な人を見送りたくない。わがままだけどさきにしにたい。
ぱおちに向ける気持ちと、家族に向ける気持ちが同じなんだと気がついて、驚いた。
私はうまれたいえの家族が大事だ。それは愛してるとも言える。それと同じくらいということは、すごいことだ。なぜなら、他人だったのだから。
(他の人に対して「家族だから愛すべき」とは思わない。家族を愛することは規範ではない、選択の自由があるべき)
違う場所で生まれて、20年くらい存在を知らずに過ごして、それでも血を分け合う家族と同じくらい愛せるんだ、感動。
でもほんの数ヶ月前までは、ややマリッジブルー寄りだった。
ほんの小さな、私の中では大きな出来事によって、離れない覚悟をした。
※その過程↓
日記の延長
— 町の (@seong76_) 2022年7月29日
短い三日の積み重ね|町の @seong76_ #note https://t.co/ljMzDrA4AR
前回の続き
— 町の (@seong76_) 2022年7月31日
三日間への答え|町の @seong76_ #note https://t.co/OKEDtREa4E
それはもしかすると、ぱおちも同じかもしれない。
私たちはゆっくり、じっくり歩み寄って、「2年付き合えば結婚してもいいかな」なんて、様子見で家族にはならない。ならなかった。それを誇りに思うよ。
私はもう、堂々とぱおちとの未来を語るし、愛している、と人に話せる。
ばらばらの所にいてもちゃんと繋がっていて、愛してるし、愛されてるんだなと、わかるのがすごい。他人の心なんて測れないのに、わかるのがすごいよ。
最愛だな〜パオち。